ブログ素人でも楽しい人生を歩むお得情報サイト

こんにちは、私は瀬戸内海の小さな島に住んでいます。トンチーです。2018年5月から、ブログをはじめました。フェースブックを利用して皆さんにお役に立つ情報、面白い情報を投稿していきたいと思います。どうぞよろしくお願い致します。

夷を以て夷を制す 日中戦争の真実

こんにちは、ライフデザイナーのトンチーです。
 
最初に応援ポチっとしてくれるとうれしいです。


Facebookランキング

 
 
 
あなたは、夷を以て夷を制すという意味を知っていますか?
 
他国同士で争わせて自国の安全と利益を図ろうとする
 
外交政策です。
 
意図的な「漁夫の利」をねらうやり方ですね。
 
 
日中戦争の真実
 
では、これから本題に入ります。
 
言葉では、日本と中国が戦争したように思われますが
 
実は、中国の内紛を鎮めるため大陸の治安維持を
 
目的とした日本がまんまとその罠に引きずり込まれた戦争
 
だったのです。
 
ですから、侵略した日本というのは、大嘘で仕組まれた罠に
 
はまった日本こそ被害者なのです。
 
もともと国民党と共産党が争っていました。
 
しかし、同じ国民党の中でも2つに分かれて争っていました。
 
とにかく中国国内は、統一された政権はなく不安定な状態で
 
あったことは、事実です。
 
具体的にいうと中国では、国民党の蒋介石汪兆銘
 
政権を争っていました。
 
民衆は、人望のある汪兆銘の方に期待しました。
 
しかし、彼は、当初反日家でしたが、国家の存亡のため
 
南京政府をつくり日本と国交を樹立します。
 
納得のいかない蔣介石は、いつまでも混乱をおさめようとは、
 
しません。
 
そんな中まだ力のなかった共産党軍が、蔣介石を捕まえます。
 
共産党軍としては、いつでも国民党のリーダーを抹殺する事
 
は容易にできます。
 
毛沢東は、蒋介石の命は、助けてやるからおまえは、日本と
 
戦えと命じます。
 
共産党のバックには、ソ連スターリン率いるコミンテルンの指示
 
があったのです。
 
それまで、日本と戦う意思がなかった蒋介石ですが、自分の
 
命と引き換えに共産党軍の拡大を許してしますのです。
 
 
盧溝橋事件
 
1937年(昭和12年)7月7日に中国の北京西南方向で起きた
 
日本軍と中国国民革命軍との衝突事件です。
 
最初にしかけたのは、どうも共産党軍という定説が正しいのか
 
と思います。
 
というのも後に共産党劉少奇は、自分の工作実績自慢話
 
をしています。
 
火をつけるのが、共産党軍、実際に戦うのは、国民党軍と日本
 
という図式ができていたのです。
 
 

 

日中戦争の真実

日中戦争の真実

 

 

 
日本の美徳
 
大陸の考えと日本の考え方は、根本的に違うようです。
 
日本には、弱気を助け強きをくじくという言葉がありますが、
 
大陸には、そのようなことばは、理解されません。
 
とにかく強い国には、従うが、日本のように強者が弱者を
 
助けるという事は、夢にも思っていません。
 
大陸の人は、暴君には、慣れていて平和主義には、慣れていない
 
のです。
 
ですから日本が平和的解決をとろうとすると何か弱みがあるから
 
弱腰な日本につけこみ反抗的態度をとるのです。
 
欧米は、強いからかなわないけど、反対に日本には、弱腰の国だから
 
強きにでていいと意識がはたらくのですかね?
 
日本の真意がわからない大陸は、本当に残念でなりませんね。
 
まとめ
 
この考え方は、100年以上たった今でも変わらない大陸の考え方
 
です。
 
多くのアジア・アフリカで感謝されている日本ですが、特亜3国に関して
 
は、永遠と理解されないでいくかと思うと残念でなりません。
 

9回出撃して9回生還した奇跡の特攻隊員

こんにちは、ライフデザイナーのトンチーです。
 
最初に応援ポチっとしてくれるとうれしいです。


Facebookランキング

 
 
 
 
あなたは、特攻隊と聞いてどんなイメージがありますか?
 
正式には、神風特別攻撃隊といいます。
 
戦況が悪化した1944年(昭和19年)10月にこの作戦が
 
決行されました。
 
「十死零生」の作戦 この言葉のとおり戦いに行けば
 
生きて帰ることは、許されぬ。敵艦に突撃して自爆する事
 
がお国の名誉になるという極めて悲惨で非人道的な
 
作戦だったのです。
 
奇跡の生還をした特攻隊員
 
彼の名は、佐々木友次さん(当時21歳)です。
 
少年のころから飛行機にあこがれていました。
 
しかし、それが、まさか戦争につながる特攻隊員となるとは、
 
本人は、思ってなかったと思います。
 
時代の流れに翻弄され万だ隊に所属します。
 
彼には、日露戦争で戦った父の教えがありました。
 
「人間は、容易なことで、死ぬもんじゃない。」
 
非常な上官の命令
 
上官達は、佐々木さんに死ぬことを求めます。
 
怒り脅し、罵倒しながら彼を追い詰めるのです。
 
今度は、爆撃でなく体当たりで船を沈めろ!
 
敵艦を攻撃できたら帰還してもいいと思いませんか?
 
当時の常識が、今と違っていたのが、残念でなりません。
 
まとめ
 
今日本は、裕福な時代に生きています。
 
ただ、コロナ問題で困窮していることは、確かです。
 
私たち以上に死と直面した戦時中の兵隊さんたちの
 
心情を思うとコロナでどうのこうのとアタフタ混乱している
 
状況は、戦人の人からみるとはずかしいと思いませんか?
 
もっと堂々とかまえて、やるべきことを徹底的に行う事が
 
大切です。(守るべき事は、ピシッとやりましょう!)
 
独り独りが、あいまいに考えているからいつまでも感染者が
 
なくならないのです
 
集団は避ける。マスク・手洗い・うがいの実行
 
もっと真剣に考えて一刻もはやくコロナから脱却しましょう!
 
話が脱線してごめんなさい。

真実!終戦8月15日の後も勇敢に戦った兵士をご存じですか?

こんにちは、ライフデザイナーのトンチーです。
 
最初に応援ポチっとしてくれるとうれしいです。
 
 
 
 

 

 
 
あなたの認識
 
1945年8月15日天皇玉音放送で戦争が終結した
 
と思う方が多いと思いますが、実は、その後も
 
勇敢に戦った日本兵がいたことをあなたは、ご存じ
 
ですか?
 
 
勇敢な日本兵
 
 
東アジアの各国で、日本兵は、戦っています。
 
しかし、天皇終戦宣言と同時に戦争は、終わってない
 
のです。
 
まずは、北からいいますとソ連は、日本と日ソ中立条約を
 
1941年締結しました。
 
期間契約満了を待たずしてソ連は、8月9日一方的に破り
 
8月18日から北方領土に侵攻し侵略したのです。
 
占守島キスカ島の戦い
 
日本兵は、15日の天皇玉音放送を聞いてやっと
 
戦争が終わると思っていましたが、ソ連兵の襲撃で戦う事
 
になりました。
 
(汚いソ連の裏切りには、あきれる!)
 
またシベリアにいた捕虜たちは、過酷な労働で長く
 
抑留され10年の歳月をかけてやっと帰国するということ
 
になったのです。
 
日露戦争の恨みが、よっぽど根づいていたのかも?
 
 
次にインドネシア日本兵の事を話します。
 
オランダが、元植民地のために又獲得しにきたのです。
 
困ったもんですね!
 
 
後にインドネシアは、オランダから独立するのですが、
 
2000人ほどの日本兵は、終戦後残ってインドネシア
 
独立のため一緒に戦い1000人の戦士者がでました。
 
 
結果的に旧日本軍とインドネシア軍の勝利となり
 
はれて独立することができました。
 
 
こういった経緯ででインドネシアの人々は、今でも日本に
 
感謝しているそうです。
 
インドネシアの教科書に歴史の真実が書かれています。)
 
 
日本ではこの事が知らされていないのは、残念ですね。
 
 
 
最後になりますが、29年間ルバング島にいて旧日本兵
 
して生き延びた小野田少尉について語ります。
 
陸軍士官学校出身の彼は、祖国日本の為に頑張った
 
歴史の生き字引です。
 
本当に辛い苦難の日々を過ごされたと思いますが、
 
民間の鈴木紀夫という日本人によって発見された事は、奇跡的
 
幸運の持ち主だと思います。
 
その時の様子をみると鋭い目つきの小野田さんの印象が
 
あります。
 
それは、いつも何かに対する危機的状況にあったからかと
 
思います。
 
1974年(昭和49年)3月12日に帰国しました。
 
幸いにも小野田さんは、結婚しブラジルに移住、
 
小野田牧場を経営し小野田自然塾も主宰しました。
 
91歳の生涯をとじました。
 
 

まとめ

 
 
日本人の知らない真実があることをもう一度確かめる
 
いい機会になったと思います。
 
 
私たちが教えられた教科書は、もしかしたら、デタラメかも
 
しれません。
 
戦勝国の都合の悪いことは、すべて排除する
 
必要があったことは、間違いありません。
 

東京裁判は、公平な裁判であったのだろうか?

こんにちは、ライフデザイナーのトンチーです。
 
最初に応援ポチしてくれるとうれしいです。


Facebookランキング

 
 
東京裁判は、正式には、極東国際軍事裁判といいます。
 
1946年5月6日から市ヶ谷の旧陸軍士官学校講堂で
 
1948年11月12日まで行われました。
 
 
勝てば官軍負ければ賊軍
 
戦勝国が中心となって敗戦国の戦争犯罪人をどう
 
あつかうのか注目されるところですが、その結果は、
 
本当に公平に裁かれたものだったのでしょうか?
 
私は、この点に対して非常に疑問におもいます。
 
公平な裁判ならもっと中立の立場の国々の参加が
 
あってもよかったのではと思います。
 
 
事後法で裁いた東京裁判
 
 
ブルース・ブレイクニー弁護人は、「戦争は、犯罪では、ない。
 
戦争は、国際法があり合法、戦争は国家の行為であって
 
個人の行為でない為個人の責任を裁くのは、間違いである。」
 
と述べています。
 
インド人ラダ・ビノード・パール判事は、国際法でも慣習法でも
 
ない事後法で戦勝国が、敗戦国に加えた復讐のためのリンチ
 
であり被告は、全員無罪だと言っています。
 
日本は、世界に向けて人種平等を訴えていたので白人社会に
 
よっぽど嫌われていたのでしょうか?
 
本来であれば通例の戦争犯罪で裁くべきことですが、あえて
 
平和に対する罪、人道に対する罪の法律を日本人を罰しがたい
 
為につくったというのは、本当に驚きででした。
 
ドイツのユダヤ人大量虐殺という非人道的行為ならまだしも
 
日本には、そのような罪は、あてはまらないと思いませんか?
 
 
裁判の結果
 
A・B・C級という罪で勘違いするのですが、このランクづけは、
 
罪の大きさを示すものではありません。
 
A級戦犯は、平和に対する罪
 
B級戦犯は、通例の戦争犯罪
 
C級戦犯は、人道に対する罪に区分されたのです。
 
A級戦犯28名の内、絞首刑の7名は、1948年12月23日
 
巣鴨拘置所で刑の執行が行われました。
 
きしくも当時皇太子であった昭仁親王(現在の上皇)の
 
15歳の誕生日でした。
 
これは、連合国軍が意図的に計画したとしか思えませんね。
 
1960年遺灰の一部は、愛知県西尾市にある三ヶ根山
 
殉国七士廟に祀られています。
 
 
日本の立場
 
真珠湾攻撃に対しては、有罪で日本に2つの原爆投下した
 
のは、無罪だというのは、矛盾していますね!
 
パール判事のように勇気をもって日本は、判決に対して
 
発言するべきであったと思います。
 
がしかし、日本政府は、「日本国との平和条約」11条に
 
より裁判及び他の連合国法廷の裁判を受諾した為
 
異議を申し立てる立場にないという見解をとっています。
 
なんともはがゆいと思いませんか?
 
あまりにも律儀で人がいい国、日本ですね!
 
 
マッカーサーからみた日本の立場と錯誤
 
 
資源の乏しかった日本があらゆる原料の供給を断ち
 
切られたら1200万人の失業者が発生するだろうという
 
危機感があった。日本は、治安を守るために戦争に
 
ふみこまざるを得なかった。
 
過去100年内で太平洋で犯した最大の政治の過ちは、
 
共産主義の中国が強大な勢力をのばしたことを
 
黙認してしまったことだと述べています。
 
 

 

米国人弁護士が「断罪」 東京裁判という茶番

米国人弁護士が「断罪」 東京裁判という茶番

 

 

 

スマラン慰安所事件の真実 BC級戦犯岡田慶治の獄中手記

スマラン慰安所事件の真実 BC級戦犯岡田慶治の獄中手記

  • 発売日: 2018/04/09
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)
 

 

まとめ
 
いまでは、東京裁判がデタラメの裁判であったという人
 
が、多くなってきました。
 
戦勝国の国でもあの裁判は、間違っていたと反省する
 
歴史研究者がいます。
 

バンドン会議とは、どういったものだったのか?

こんにちは、ライフデザイナーのトンチーです。
 
最初に応援ポチしてくれると嬉しいです。
 
第2次世界大戦後東アジアの国々は、次々と
 
独立していきました。
 
 
 
バンドンで、開催されました。
 
参加国は、日本を含む29か国でした。
 
 
は、参加しなかったんですね。
 
 
アメリカ(西側諸国)・ソ連(東側諸国)のいずれにも
 
属さない第3国の立場を貫く事を誓いました。
 
 
各国代表からの率直な意見
 
「日本という国が、大東亜宣言をだしてアジア民族の開放
 
を戦争目的にした。その宣言がなかったらあるいは、日本が
 
アジアのために犠牲になって戦っていなかったら我々は、
 
いつまでもイギリス・オランダ・フランスの植民地のままだった。
 
日本が大きな犠牲を払い勇敢に戦ってくれたおかげで
 
今日のアジアがある。
 
我々が独立できたのも日本のおかげです。」
 
アジア・アフリカ会議の後、戦後日本は、多くの信頼をえて
 
今日の繁栄をきずいたのですね。

イザベラ・バードさんから見た李氏朝鮮とは?

こんにちは、ライフデザイナーのトンチーです。
 
最初に応援ポチしていただけると嬉しいです。


Facebookランキング

 
 
イザベラ・バードさんは、1894年(明治27年)~1897年(明治30年
 
までの4年間朝鮮を訪れています。
 
李氏朝鮮王朝の末期時代で人口は、1200万人~1300万人いたと
 
いわれています。
 
田園風景や美しい木立に対しては、すばらしく感銘していますが
 
都市ソウルは、ひどく汚く悪臭が漂っていたといいます。
 
人々は、日本人よりも大きくがっちりとしていますが、年のわりに
 
老け顔であったといっています。
 
また女性の教育は、行き届いてなく自由に外出する環境では
 
なかったようです。
 
身分階級が、はっきりしていて、特権階級の両班(やんばん)が
 
仕事はぜずに階級の低い人々を奴隷として扱っていました。
 
この身分制度が、この国の発展を妨げているようです。
 
 
イザベラ・バードは、王族とも親しく接していたようで、国王の
 
高宗に対して勤勉であるが、主体性がなく君主としては、
 
器量にかけている。常に王妃閔妃のいいなりになっている。
 
国全体の物事を考えて政治の手腕を発揮するには、
 
物足りなさを感じていたようです。
 
のちに王家の内部分裂も起き李氏朝鮮は、危機を迎えます。
 
もう独り立ちするには、不可能な国となったため朝鮮の李完用
 
は、日本に手助けをもとめ日韓併合となりますが、日本の行為が
 
すべて、朝鮮の人に受け入れられたわけでは、ありません
 
でした。
 
日本としては、道路、鉄道、電気、水道などのインフラ整備に
 
つとめ人口も以前の倍以上になったといいます。
 
農業、工業の技術もさかんに取り入れられ発展していったの
 
ですが、残念ながら反日家の人々からは、未だに感謝されていません。
 
イザベラ・バードさんは、日本にも強引なやり方が、あったのでは、ないかと
 
言っています。

イザベラ・バードから見た日本人の印象は、どうだったのでしょうか?

こんにちは、ライフデザイナーのトンチーです。
 
最初に応援ポチしてくれるとうれしいです。


Facebookランキング

 
 
 イザベラ・バードさんからみた日本
 
今回は、明治の頃、日本・朝鮮・中国をおとづれたイザベラ・バードさん
 
からみたアジアの様子をみてみたいとおもいます。
 
イザベラ・バードさんは、22歳から70歳まで南米大陸以外のほとんどの
 
国に旅しています。
 
日本には、1878年(明治11年)5月から7か月間に渡って横浜から
 
東北・北海道までと大阪・神戸・京都・伊勢の4500キロという壮大な
 
旅の記録が残っています。
 
当時の交通機関は、横浜~新橋 神戸~京都の鉄道のみです。
 
道路状態もまだ整備されてない中かなり過酷な旅では、
 
では、なかったでしょうか?
 
しかも当時は、珍しい外国人女性の一人旅ですからね。
 
 
 
不思議な国日本の姿は、どのように映ったのでしょうか?
 
日本人は、親切で、気配り、清潔、礼儀正しいと言っています。
 
女性一人で旅をすることは、とても不安があったと思いますが
 
日本の治安が良かったことは、誇りに思います。
 
東北の田園風景とそこに暮らす人々の素朴で親切心に
 
感動しています。
 
日本は、貧しくても共存共栄の考えがねずいていたのだと思います。
 
ねたみ、うそ、人間同士の信頼関係が薄いというといったことは
 
なかったようですね。
 
伊藤鶴吉が通訳兼従事者として同行していますが、彼女から
 
するとあまり印象がいいものでは、なかったそうですが、時間経過と
 
共に信頼するようになります。
 
農村での宿泊先では、穴の開いた障子から人々がのぞき込んで
 
見るので、プライバシーの無さに驚いていました。
 
また蚊とか他の虫にも悩まされたそうです。
 
日本の子供たちは、おとなしく年少の子供の面倒をよくみています。
 
親の手伝いをよくし目上の人を尊敬しています。
 
優しく素朴な日本人の子供が大好きになりましたと述べています。
 
 
 
旅は、行き当たりばったりではなく用意周到に計画されて
 
行われました。
 
彼女は、熱心なキリスト信者であったため、キリスト教の布教活動
 
の目的もあったのですね。
 
 
 
ここで、朝鮮をおとずれた時のイザベラ・バードの話は、次回のお愉しみ
 
にしましょう!